https://www.axera.co.jp/edo100/index.... 安藤広重が江戸時代に描いた浮世絵シリーズ、 名所江戸百景、その舞台となった場所は、 今、実際どうなっているのか、訪ねてみました。 Ukiyo-e series drawn by Hiroshige Ando in the Edo period, 100 Famous Views of Edo, the place where it was set I asked him what was actually happening now. Click here for English version. https://www.axera.co.jp/edo100views/i... 私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。 079の「芝神明増上寺」は、今の第一京浜大門交差点付近から、増上寺大門方面を見た景色です。この画は江戸百景シリーズの末期に、江戸百景の付録的な位置づけで、世の中に発表されました。 先ず、AppleMapでこの場所を確認してみます。 地図左の大きな緑色が増上寺です。真ん中あたり、大門の交差点を南北に走る道路が、東海道で、その右側がJR浜松町駅です。 広重の視点を赤いグラデーションで表してみます。 これに当時の地図をかぶせてみました。当時の増上寺がいかに大きかったのかが判りますね。周りを取り囲む赤い部分は、子院と寮です。縦に町名の入った道路が東海道で、今の浜松町駅あたりから先はもう海でした。紀伊殿のお屋敷が今の芝離宮に変わったのが判りますね。 当時、広重は、この増上寺と芝神明を俯瞰で描いた画を描いています。ご覧になると判りますが、道路と主要施設は、現在のレイアウトに近い状態です。 これに建物の解説を入れてみました。いかがでしょう?位置関係がものすごく判りやすくなりましたね。これに広重の視点である赤いグラデーションも入れてみました。 右下の東海道側から歩いてくると、右手に芝神明宮があって、橋を渡り大門をくぐります。大門の手前には桜川が右の溜池から流れてきて、左の古川方面に注いでいました。 大門を超えると、今も残る芝公園の松並木が左右に現れ、目の前が山門になります。 山門をくぐると本堂が現れます。このあたりの基本的なレイアウトは現在と全く変わりませんね。 最後にApplemapのストリートビューをかぶせてみました。大雑把には、広重の描いた位置関係を保っていることが判りますね。 それでは、広重の画を詳しく見ていきましょう。 この画は、78景に続いて題字が「江戸百景余興」となっているのが、印象的ですね。 左側に見える赤い門が増上寺入口の大門で、その後が山門、その奥に本堂の屋根も描かれています。 右側の千木が乗った屋根が特徴的な建物が、飯倉神明宮、俗称芝神明宮です。祭礼は、9月11日から21日まで続き、当時さまざまな薬効があるとされていた生姜市がたつため「生姜祭」とも呼ばれていました。千木とは神社建築の特徴のような屋根飾りのことですが、お祭りの時には、杉の曲げ物を三段重ねて造られた「千木筥」と呼ばれる縁起物がお土産として売られていました。 芝神明宮の周辺には、歌舞伎小屋、見世物小屋、楊弓場、講釈や落語の小屋が建ち並び、江戸南側の随一の盛り場を形成していました。歌舞伎の「め組の喧嘩」で有名な、火消しと力士の大喧嘩が起り、裁判沙汰にまでなったのも、この神明宮境内です。 大門の前には、桜川が流れていて、その橋を渡って、今僧侶が十数人歩いてこちらに向かっています。この一行は、日暮れ近くの七つ刻(午後4時ごろ)になると、江戸市中に托鉢に出かけたため、七つ坊主と呼ばれていました。 この七つ坊主達は、托鉢だけでなく、江戸の警備的な役割もしていたようで、「大道横行するものを、懲らしめることを専らとする」という、彼らを紹介した文書も残っています。 真ん中下には、尻っ端折りに脚絆、菅笠の格好の一行は、地方から江戸見物に出てきた人たちのようです。増上寺のお参りを終え、東海道に戻って、江戸の中心地に向かうようです。 実際にこの場所に行ってみました。この写真のだいたい左半分ぐらいを広重は画にしたようです。このシリーズには珍しく、当時の区割りのまま町が残っていて、赤い大門の後に山門も見えていますが、残念ながら神明宮は見えません。 芝神明商店街の入口から増上寺大門方向にカメラを振ってみました。 これが現在の芝神明宮です。もともと伊勢神宮の食堂的な社で、「飯倉御厨(いいぐらみくり)」とよばれ、最初は今の東京タワーあたりにあったものを増上寺が移転してきたためため、今の場所に移され、「飯倉神明宮」と呼ばれていました。 その後、芝の地に町ができたことから、「芝神明宮」と呼ばれるようになり、明治初期からは、天皇家ゆかりの名前、「芝大神宮」となりました。 これが大門で、1937年(昭和12年)に東京市が市民の寄付を募ってコンクリート造りで改築したものです。左右に走る道路はもと桜川で、交差点には橋が架かっていました。 これが、戦災で唯一焼け残った増上寺の山門で、三解脱門と呼ばれ、元和7年(1621年)の建立で、現在、国の重要文化財に指定されています。この赤い門をくぐると、3つの煩悩から解脱できるとされています。3つの煩悩とは、貪(とん=むさぼり)瞋(じん=にくしみ)癡(ち=おろかさ)のことです。さて、実際に解脱できるかは、是非ご自身でお試しください。 これが現在の本堂で、9世紀、空海の弟子・宗叡が今の千代田区麹町・紀尾井町あたりに建立した浄土宗の光明寺が前身だといわれています。 その後、徳川家の菩提寺となり、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移されました。風水学的に、寛永寺を江戸城の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられています。 本堂の後には、東京タワーが見えていますが、その後にある高層ビルは現在、麻布台一帯の再開発で、麻布台ヒルズが建設されている工事現場です。 さて広重の画に現在の景色をはめ込んでみました。 芝神明宮は、ビルの陰で見えていませんが、道路位置的に現在も当時の状態を保っています。本来はりそな銀行の後ぐらいに、千木を屋根に乗せた芝神明宮がみえるのですが、みえていませんね。 江戸末期、江戸湾に黒船が現れてから、京都朝廷と江戸幕府、その藩幕体制のパワーバランスが崩れていく中、市民の間でも何となく、徳川の時代が終わるのではないか、と思われていました。広重がこの画を描いた数年後、天皇家を担ぎ上げた薩長連合が「明治維新」という名前のクーデターを成功させます。広重の画は、徳川家菩提寺の総門である大門を半分にトリミングして、天皇家ゆかりの「関東のお伊勢さん」と呼ばれる芝神明宮が、本来の位置より大幅に張り出して描かれています。 増上寺の七つ坊主より、同じ人数の一般庶民が手前で大きく描かれています。私は、このあたりから、絵師広重の総合的な時代感覚を感じてしまいます。