081 高輪うしまち=たかなわうしまち Ushimachi at Takanawa.

081 高輪うしまち=たかなわうしまち Ushimachi at Takanawa.

https://www.axera.co.jp/edo100/index.... 安藤広重が江戸時代に描いた浮世絵シリーズ、 名所江戸百景、その舞台となった場所は、 今、実際どうなっているのか、訪ねてみました。 Ukiyo-e series drawn by Hiroshige Ando in the Edo period, 100 Famous Views of Edo, the place where it was set I asked him what was actually happening now. Click here for English version. https://www.axera.co.jp/edo100views/i... 私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。 081の「高輪うしまち」は、今の地下鉄泉岳寺駅を地上に上がったぐらいのところから、大八車越しに海の方向を見た景色です。広重の頃には、この東海道の東側は、何もなくすぐ海でした。 先ず、この画がどこを描いたものなのか、Applemapでご確認ください。 地下鉄泉岳寺駅の北側ぐらいに高輪大木戸の土塁が残っているのですが、広重は、この大木戸の少し南側から海を見た景色を描いたようです。広重の視点であろう場所を赤いグラデーションで表しました。 これに当時の絵地図をかぶせてみました。東海道の東側は、民家もなくすぐに波打ち際だったことがわかりますね。 この上にさらに明治初期の地図をかぶせてみます。この地図では既に海岸線の先に鉄道用の土塁が築かれているのが判ります。 この地図を縮小して、今度は広範囲まで表してみます。東側の海に菱形の島のようなものが現れます。これは、黒船の出現を機に、江戸幕府が慌てて造った海上防衛用の砲台、いわゆる台場です。右側の第六砲台と第三砲台は、現在でもお台場に現存しています。 田町から品川あたりまではゆっくりとした弧を描く海岸線で、高輪と呼ばれ、月の名所としても名を馳せていました。 さてここで、このあたりを広重が、北から見た俯瞰で描いた高輪全図をご覧ください。 ちょっと海岸線のアーチは誇張されていますが、だいたいの雰囲気は判ります。広重の視点も赤いグラデーションで入れてみました。 広重の描いた「うしまち」とは、高輪大木戸を南に出た右側、正式名称、芝車町のことです。この画の左下、大木戸の石垣のあたりにも、牛車や大八車が小さく描かれています。 寛永11年(1634年)の増上寺安国殿建立と、その2年後の市ヶ谷見附の石垣普請のため、重量ものの運搬ができる牛車が大量に必要となりました。そこで幕府は、京都四条車町の牛屋木村清兵衛を中心とする牛持人足を江戸に呼び寄せて、その運搬にあたらせました。工事が終わってもこの町での定住を認め、褒美として牛車を使っての荷物運搬の独占権も付与、牛車の専門職人集団はますます発展していきました。正式名称「車町」、通称「うしまち」呼ばれたこの地域には、最盛期に1000頭ほどの牛がいたようです。 時代が進み、疫病蔓延のため一時牛の頭数が減ってしまった時に、車町の車大工、八左衛門が牛の代わりに人間8人で車を引く「大八車」を開発しました。しかしこの発明により、牛の出番はますますはなくなり、牛車そのものの需要がどんどん落ち込んでいきました。 画の中程右側には、忠臣蔵で有名になった泉岳寺が描かれています。もう少し先が筑後久留米藩、有馬家の下屋敷も描かれています。この場所は今、品川プリンスホテルになっています。 ずっと先には、品川宿が描かれていますが、今の品川駅ではなく、その先の御殿山を越えたあたりから品川宿が始まります。 有馬家下屋敷の奥には、幕府の台場建設事務所が置かれ、その先の八ツ山と御殿山を崩して台場がどんどん造られていました。その崖の光景をひと味違った名所として広重が描いたのが、名所江戸百景の28景、「品川御殿やま」です。 実際に広重が描いた画を詳しく見ていきましょう。 先ず空にかかっているのは、色は無くなっていますが虹です。おそらく雨上がりの午後という設定なのでしょう。 虹以上に大きく空にせり出しているのは、うしまちの発明品、大八車です。この大八車の車輪のデザインは、今でも各地で使われているお祭り用の山車の車輪と一緒なのが、興味深いですね。 海にはたくさんの船が浮かび、一緒に台場が描かれています。車輪に隠れて何となく数がわからないようになっているのは、軍事施設なので幕府からお咎めを受けないようにするためでしょう。 水平線の左には、房総半島が少しだけ見えていて、波打ち際には、護岸用の杭も数本見えています。浜辺には二匹の犬が描かれ、そのうちの一匹が咥えているのは、東海道の旅人が捨てた草鞋です。一緒に捨ててある西瓜の皮に、夏の生活感がリアルに出ていますね。 広重は、この高輪界隈が大好きだったようで、かなりの作品を残しています。その一部をお楽しみください。 先ずこの画は、高輪の大木戸越しに海を見た画です。大八車も描かれ、名所である月もしっかりと描かれています。この大木戸は、宝永7年(1710年)に、御府内と御府外を区別する木戸として東海道に造られ、高札場の役割も果たしていました。 この「秋の景」は、きれいどころが料亭から海と月を見るという設定です。東海道の往来や、波打ち際にできた葦簀張りの店の賑わいなど、当時を垣間見ることができますね。 この「高輪の夕景」は、大木戸の手前から海の大型船が大きく描かれ、大八車と牛車、馬と駕籠で旅をする人々、宿屋の女将が客引きをする姿など、そのときの一瞬を描いているようで、楽しいですね。 この大木戸は、初めは木戸があり明六ツ、暮六ツに開閉していましたが、後に木戸は撤去され、左右の石垣だけが残されました。伊能忠敬が日本地図作成のために行った測量の起点もこの高輪大木戸でした。 「高輪之名月」は、大木戸の土塁と高札、アーチ状の海岸線と名月観賞用の葦簀張りの店がざっくりと描かれています。名月につきものの雁も大きくリアルに描かれているのも、面白いですねえ。 後に広重の名前を全国に知らしめた「月に雁」は、1949年に切手の絵柄にも採用されています。右側の雁が三羽のタイプですね。 右側は、初代広重が大木戸の土塁と大名行列を描いているのですが、左の二代目は、ダイナミックな模様の牛と、海には日本の船だけではなく海外の旗を翻した船を描いています。よく見ると手前の船の人間も、山高帽をかぶっていたりと、随分時代が進んだ感じがしますね。 広重は、絵本江戸土産でも高輪の光景として採りあげ、その景色が絶景であることを強調しています。広重はよほどこの景色がすきだったのでしょうねえ。 最後にライバルである北斎も高輪を描いているのでご覧ください。新しい銅版画風のタッチで洋風表現を試みた作品です。大木戸の土塁、アーチ型の海、東海道、そして富士山がダイナミックに描かれています。 実際この場所に行ってみました。 昔海だった場所は現在、新駅高輪ゲートウエイ周辺の再開発工事中で、工事現場だけしか見えません。 目の前に塀があるので、今も残る高輪大木戸の土塁に上って、その上から撮ってみました。 昔海だったところから品川方面を見た動画です。 第一京浜を中心に三田駅方面から品川方面まで見た動画です。 当時、芝車町だった場所に立って、田町から海方向を見渡した動画です。 当時、芝車町だった場所に立って、品川から海方向を見渡した動画です。どちらもわけのわからない工事現場にしか見えませんね。 泉岳寺の交差点に立つと、多少向こう側がスッキリ見えてきます。ですが、海はここからずっと先です。 広重の画に、その工事現場をはめ込んでみました。 この再開発は、当時高輪と呼ばれていた地域の海側、ほぼ全域が対象になっています。月の名所どころか、今は工事現場の名所になっています。コロナで疲弊したこの国に、まだこんな巨大な再開発が、必要なんでしょうかねえ。街なんか作らずに、公園にでもしてくれたらいいのにねえ。 せっかくですので、当時、疫病蔓延後の牛車と職人を追いやった発明品、大八車をそのまま残してみました。いかがでしょうか? 次回は、品川宿の「月の岬」です。