https://www.axera.co.jp/edo100/index.... 安藤広重が江戸時代に描いた浮世絵シリーズ、 名所江戸百景、その舞台となった場所は、 今、実際どうなっているのか、訪ねてみました。 可能であれば、毎週日曜日に 更新したいと考えております。 体力が持てば、ですが。 Ukiyo-e series drawn by Hiroshige Ando in the Edo period, One Hundred Famous Views of Edo, the place where it was set I asked him what was actually happening now. If possible, every Sunday I would like to update it. If you have the physical strength, though. Click here for English version. https://www.axera.co.jp/edo100viwes/i... 私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。 046の「鎧の渡し小網町」は、今の東京証券取引所の脇にあった、「鎧の渡し」の発着所から小網町方面を望んだ景色です。 まず、Applemapで場所を確認してみます。「鎧の渡し」は1872年、日本橋兜町から日本橋小網町へ架かる鎧橋という橋になりました。その西詰には、丹後舞鶴藩牧野家上屋敷がありましたが、今はその跡地に東京証券取引所が建っています。日本橋川の上には、首都高速環状線が走っています。広重の視点を赤いグラデーションで表してみます。 この地図をさらに拡大してみました。これにやはり広重の視点である赤いグラデーションを入れ、さらにそこにこの画が描かれた当時の古地図をかぶせてみました。 広重の画の左側に列をなして立ち並んでいた白い土蔵は、この地図の青い部分です。この裏は、群馬の酒井雅楽守とその親戚筋である福井の松平越中守のお屋敷になっていました。緑の三角の左側に小さく「イナリ」と書いてある場所は、現在少し北東に移動して、小網神社になっています。 広重は「絵本江戸土産」で、江戸橋からこの蔵の建っていた場所を描いています。当時小網町二丁目と三丁目の川縁は鎧河岸と呼ばれ、米と菜種油を中心とした物資の集積地として大変賑わっていました。それを保管するための土蔵が建ち並んでいた様子を、広重はこの画の解説で、「まるで万里の長城のようだ」と表現しています。 広重は「絵本江戸土産」で、下流から見た「鎧の渡し」も描いています。そこには木更津船と呼ばれる大きな舟が右手前に描かれ、実際の「鎧の渡し」は左側に対照的に小さく描かれています。この画の解説には、行徳や木更津から来た舟が昼夜を問わず出入りして、たくさんの荷物が集まってきていると書かれています。この頃の鎧河岸が、いかに賑わっていたがわかりますね。 前回見た高低差のわかる地図をご覧ください。徳川家康が江戸に入府する前は、この広重が描いたとされる辺りはほぼ海で、神田山から伸びる江戸前島の東の海岸でした。 その昔、朝廷の命を受け奥州征伐に向かった源義家が、ここから下総国に向かって海を渡ろうとしたときに、暴風雨が吹き荒れていました。そこで、過去の日本武の例に倣って、龍神を鎮めるため鎧1領を海に投げ入れたところ、たちどころに風と波が静かになり、無事海を渡ることができました。その後、この辺りは「鎧が淵」と呼ばれるようになり、この渡しができたときに「鎧の渡し」と呼ぶようになったそうです。 また、奥州征伐を終え凱旋してきた源義家が、戦勝のお礼に兜を埋めた場所が「兜塚」で、それが松平和泉守のお屋敷内にあり、その事からこの辺りを「兜町」と呼ぶようになりました。これが、現在の世界経済の一翼を担う、東京証券取引所の俗称にもなっています。 さらに、10世紀初め頃この辺りを広く治めていた平将門がこの場所で、首から甲をはずしたところ、甲だけを落としてしまい、そこに塚を作り、「甲山」と呼んで、祀ったことから、兜町と呼ばれるようになった、ともいわれています。 では、実際の広重の画を詳しく見ていきましょう。 夏空には、4羽の燕が群れ遊ぶように飛び回っていて、その下には左から流れるようにして、鎧河岸の船積問屋の白い土蔵がびっしりと建ち並んでいます。その蔵を突き刺すように、木更津船と呼ばれる大型船の舳先だけが飛び出ています。 その舳先の下から、「鎧の渡し」に乗ったさまざまな人々が、混雑した日本橋川を今、まさに茅場町側に渡ろうとしています。その先には、酒樽や菰をかぶせた、黄色い荷を積んだ、茶船と呼ばれる小型船が数隻います。この舟は、大型船から荷物を小分けにして積み出す役目をしています。 「鎧の渡し」が進む方向には、猪牙舟と呼ばれる高速船が、先に下流に向かって通り過ぎようとしています。みんな、忙しそうに立ち回っている、その有り様を岸から静かに見つめる商家の娘らしい女性が一人、黒い日傘を差して後ろ姿で描かれています。 実際に現在のこの場所に行ってみました。これがその写真です。 ここも上に首都高速が被さってきていて、あまり楽しい景色ではありません。 少し岸側に寄って、首都高速の圧迫感も取り去って、もう少し画になるように写したものがこれです。 あまり代わり映えしませんが、少し後ろに下がった写真がこれです。向こう側の橋は、新大橋通りにかかる茅場橋です。おそらく広重の画の視点には、この地点が一番近いのではないかと思われます。 小網町側から鎧橋越しに東京証券取引所方面を見た写真です。広重の視点は、ちょうど今、JPXの前で人が歩いている辺りなのではないかと推測しています。 さて、広重の画に現在の写真をはめ込んでみました。視点は若干違うのですが、女性の後ろ姿を入れると、まあまあの写真なのではないかと思います。しかし、江戸の頃の喧噪は聞こえてきません。今の日本橋川は、荷物を積んだ大型船どころか、小さな遊漁船も通行不能だろうなあ、ということがわかりますね。 船積問屋の時代には、川が物資輸送を担っていましたが、現在では、川の上を走る首都高速や、川と直角に交わる新大橋通りなどの、「道路」がその代わりを担っています。そういえば、新大橋通りは築地市場に直結していたので、名前が変わる前は「市場通り」と呼ばれていましたねえ。 築地市場は、その船積問屋時代の水上輸送と鉄道輸送も考えて作られた近代的施設でした。しかしそれも、今では陸上トラック輸送だけの豊洲に移ってしまいました。石油が時代を変えてしまったんですね。