日本語翻訳の前半部分が下の「もっと見る」からご覧いただけます。 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 【復活即法身】 おかけください 跪く決まりはありませんよ 自然に任せて道を学べば実相も自然と顕れます 即ち「道法自然」です さもなければ 壁にぶつかるばかりです 今いる環境に任せ自然に法性を流露させるのです 法性に従って流露すると円滑に法界の実相に入ることができます 『華厳経』は“法界に随順”を強調しています法界とは即ち「実相」という意味です 法性に従って法界を自然に流露すれば実相は円満となり“常楽我浄”です ここには数十年も仏道を学ばれ仏典に精通する方も大勢います 常楽我浄は実相の中にあり自然に顕れるものです いわゆる「涅槃実相」が指す内容は常楽我浄です 「楽」は法楽 当楽法身の楽仏教の目標である離苦得楽の楽です 「常」は永遠です 『阿含経』の「無常」が「常」に転依したのです 「苦」から「楽」に依り「妄相」から「実相」に依るのです 法性が流露する実相は五感による経験と知識を超えるものです 知識や経験により判断すれば実相を生み 如来を見ることはできません 如来を見ること 即ち実相を生むこと“諸相を見て諸相にあらず 即ち如来を見る 『金剛経』では実相を第一希有の功徳としています 仏道を学ぶ者は『金剛経』の“相あるものはすべて虚妄”に影響され── 実相を見失い第一希有の功徳を捨て去ったのです 相あるものはすべて虚妄”によって“諸法実相”を覆し── 梁武帝の善行や廟の建立を功徳としたため── 仏道を学ぶ者は実相に入ることができず座禅 念仏などに傾いていきました “相あるものはすべて虚妄”の“妄相”を“実相に変え── 「実相法身」を実現大乗が説いた実相法身です 「実相法身」は釈迦が説いたものです 『法華経』の多宝仏から『華厳経』の毘盧遮那仏── 『維摩経』の観自身実相などいずれも「実相法身」を説いています 皆さんもおなじみの『般若心経』も実相を説いています この諸法は空相にして不生不滅不垢不浄不増不減なり── 空想 非相 無相は実相であり「実相」は即ち「法身」です 『大乗大義章』の鳩摩羅什と浄土教の祖である慧遠の問答から── 結論は「実相は即ち法身」です 「法身」はまた「如来」と言い如来法身 実相法身──宇宙人生の実相です 宇宙人生の一切の現象 一切法はすべて実相に転換できます 例えばコップ 応接間 山河あらゆる万物...... 宇宙人生の有形無形のすべてを複製し宇宙人生の万象に転化し「実相」となる 実相を現実化 理想化 生活化させ実体化させる──即ち仏教の「人間浄土」です 釈迦は「宇宙人生の実相」を実証し各大乗経典が説く「実相法身」を示しました 法性が流露する実相を法身と言います 法身は不生不滅の涅槃の中にあり涅槃はすなわち実相です またの名を実相法身或いは「涅槃法身」と言います 法性が最初に流露する過程の中で── 偶発的な境地から連続的な実相となり念に応じて至り 円満になります 「思えば示現する」──即ち「実相」に入ったことを意味します 天眼の一根が開かれても実相の境地には至っていません 『楞厳経』には 一根は六結を開き六根全開で実相を成就するとあります 実相は「天眼」を基礎とし天眼は実相を目標とします このため仏教には「天眼」と「法眼」があり実相は「法眼」に属します 天眼で人生から宇宙まで悟ることそれを「天眼明」「天眼通」と言います 天眼明が開かれると 残りの五根も開かれ実相の境地に入ります プラトンの「イデア論」です プラトンの神は 天地万物を目の前に「運搬」することができます 文献で老子は天眼を賛嘆しています老子が洗髪しているとき── 孔子がそばに立ち老子は素晴らしいかな......と賛嘆しました 孔子は訳がわからずただ老子は龍のようだと言ったそうです イエスはヨハネから洗礼を受けたとき空から鳩が降りてくるのを見ました 鳩は神が示現したものです神は万物の中に見ることができるのです そして空の声を聞きますがこれは実相の境地であり 法性が動きだしたのです 声が聞こえたのは「耳根」が開いたためでイエスの天耳が開き 聖霊で満たされま す イエスは空から“神の愛する子”という声を聞きました 六項がある人なら 鳩が空から舞い降りてくるのが見えるでしょう 見える方 手を挙げてください 実相法身がある人はイエスの境地を見ることができるのです 鳩は外在のものか? 或いはイエスの内心より出たものか?──内外の別はありま せん 聖霊で満たされたイエスはパンと魚の奇跡などの奇跡を起こします 五つのパンと二匹の魚で五千人の腹を満たす──これはもはや「実相」の境地です 実相は見える 聞こえる 食べられる香りもするし 触れることもできる...... 鳩が舞い降りてくるのが見えても“神の愛する子”の声が聞こえなければ── パンと魚にも触れることはできません法性の働きを発揮できていないのです 菩提心を起こした者は 実相の声を聞くことができ “聖霊で満たされます” 阿耨多羅三藐三菩提心です 『新約聖書』の最初の殉教者ステファノは「天眼」のみが開かれました “イエスが神の右にいるのが見える”とステファノは言っています 声が聞こえなければ 法性は発揮されませんステファノは石打ちの刑に処せられま すが── パウロもその場に立ち会っていました パウロはステファノのメシア崇拝に反対していたのです メシアとは「キリスト」のことであり救世主を意味します ローマの統治者にとって救世主は目の上のたんこぶでした 当時の人々は生活が苦しく反逆心を抱かざるをえませんでした 紀元前八世紀『旧約聖書』にイザヤが登場します イザヤはメシアの出現を預言しています イスラエル人はメシアが人々を率いて戦い── 黒い馬に跨り 宝剣を揮いローマ帝国を滅ぼしてくれることを願いました 『新約聖書』になると イエスがメシアとされイエス・キリストとなります これがユダヤ教の反発を招きましたパウロはファリサイ派の敬虔な信者ですが── 彼が『聖書』に登場したときはイエスは既に十字架刑を受けていました パウロは メシアの信仰者またはイエスをメシアと信じる者を捕らえ── エルサレムに連行し 殺害または監禁せよとの命令を受けます イエスを救世主などとパウロは認めることはできませんでした イエスを救世主とする者を捕らえるため彼はダマスカスへ向かいます 宗教の迫害 イエスの迫害です ダマスカスに向かう途中パウロの前に神の光が現れます 光の中から声がしそれは復活したイエスの声でした “サウロよ なぜ私を迫害する?”“なぜキリスト教徒を迫害する?” 神の光を見たパウロは 目がつぶれてしまいます 復活したイエスの声でパウロは目が見えなくなってしまったのです のちに目が見えるようになったパウロはイエスを信仰するようになりました 彼は苦難の中でキリスト教を支え最後は信仰のために殉教します 皇帝ネロからドミティアヌス...... 三百年を経て『ミラノ勅令』によりキリスト教が認められました コンスタンティヌス大帝によってやっと認められたのです しかし 皇帝ユリアヌスがこれを覆しキリスト教徒を迫害しました キリスト教徒はイエスが再来し天国へ導いてくれることを願いました では イエスはどうやって再来するのか?肉身によってなのか? または霊のからだによる再来なのか?信者をどうやって天国へ導くのか? イエスははじめから「天国は近い」と言っています 天国は神の国と同じ意味です 福音は神の国ですが釈迦が説いた極楽の世界と同じでしょうか? ファリサイ派の人がイエスに聞きます──“神の国はどこに?” イエスは“あなたの心の中にある”と答えています 釈迦が説いた“極楽世界は心よりいずる”とどう違うというのでしょうか? 『観無量寿経』の“諸仏正遍知海は心想より生ず”と合致しませんか? 神の国と極楽世界はどちらも「心より生まれる」のです 空から鳩が舞い降りてきたのもイエスの心から生まれたものです イエスにそれができたのは 洗礼を受け聖霊で満たされているからです そして病を治したり 海の上を歩いたり死人を復活させたりなどの奇跡を起こしま す 奇跡はイエスの心から生まれたものか?それとも神によるものか? 天の声から奇跡を起こすまですべては神によるもの? それは外来の神なのか?それとも心の中の神なのか? 或いは神が心? 神はイエスの心の中の神でありそこでも あそこでもなく 心の中にあるのです 『楞厳経』曰く“内に在らず 外にも在らず”大道に内外はなく 万法唯心です 「神」という言葉は『旧約聖書』に見られヘブライ語では「我が主」という意味で す ヤハウェ ヤーウェ エホバなどは『旧約聖書』では いずれも神を意味します イエス教がそれを「神」と呼びイエスは神の子でした キリスト教徒は主イエスの降臨を願い信・望・愛をもって天国の福音を祈りました しかしユダヤ教は違いますユダヤ教は伝統的な宗教であり── イエスの両親もユダヤ教徒でしたパウロはその敬虔な信者です モーゼの十誡と律法を尊重し異教徒を排斥しました イエスは神のみを信じ 天国の福音を信じユダヤ教の律法を認めませんでした イエスは最初から神の国が降臨する天国は近いと言っていました イエスはファリサイ派に向かって言います“天国は近い 天国は目の前にある」 ...... これは釈迦の「極楽世界は目の前にある」という言葉に呼応するものです ヨハネはパトモス島に流刑にされたとき神の審判と世界の終末を見ました それは天眼で見たものでした 天眼はヨハネの「心より生まれた」ものか?それとも「神」が照らしたものか? ヨハネはその天眼でイエスが神の右に立つところを見て── 神の審判と世界の終末を預言したのです 世界の終末と審判は キリスト教徒の信仰で人類は必ず滅びると信じています そこで「永生」という観念を生み出しましたイエスは再来するのか? 信者を如何に永生に導くのか?しかし 永生にはまず復活することが必要です では如何に「復活」するのか? 「復活」と「神の国」はキリスト教信者の二大福音です コリントの信徒への手紙一章44節に「復活」は「霊のからだ」で蘇るとあります 50節では「肉と血とは神の国を継ぐことができない」とあります 仏教の「超脱輪廻」とイエス教の福音は異曲同工です 仏教の超脱輪廻は「法身」を前提とし── キリスト教の永生は「霊のからだ」を主旨としています 「法身」と「霊のからだ」は永生を得る唯一の条件です 法身にいわゆる超脱輪廻がなければ極楽世界には往生できません キリスト教は「復活」することによって「神の国」即ち「天国」に存在できるので パウロは「肉と血は神の国を継ぐことができない」と強調しています このためイエスは死後三日目に霊のからだで復活したのです 「霊のからだ」でなければイエスは昇天を示現できなかったでしょう 神の国を継ぐことができなければ神の右に立つこともできません イエスは死者を蘇らせたことがあります 蘇った死者も「霊のからだ」であり肉身で復活したわけではありません つまり法身による「復活」です超脱輪廻による永生です 「神の国」と「極楽世界」はあなたの「心の中より生まれる」のです この「心」とは人々の「阿耨多羅三藐三菩提心」です 今日のテーマはこの「阿耨多羅三藐三菩提心」です この続き93集【復活即法身】全文は、こちらのpdfでご覧いただけます。 ダウンロードしてお読みください。 https://houshinsyu.jp/pdf/93fukatusok... 日本法身宗に関心・興味を持たれた方は、 こちらまでご連絡ください。 090-7361-0639 日本法身宗ホームページ https://houshinsyu.jp