https://www.axera.co.jp/edo100/index.... 安藤広重が江戸時代に描いた浮世絵シリーズ、 名所江戸百景、その舞台となった場所は、 今、実際どうなっているのか、訪ねてみました。 可能であれば、毎週日曜日に更新したいと考えております。 Ukiyo-e series drawn by Hiroshige Ando in the Edo period, One Hundred Famous Views of Edo, the place where it was set I asked him what was actually happening now. If possible, every SundayI would like to update it. Click here for English version. https://www.axera.co.jp/edo100views/i... 私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。 055の「佃しま住吉の祭」は、祭のメインイベントである、住吉神社の神輿渡御と、大幟を描いたものです。 まず、今の地図を使って、広重がこの絵をどこで描いたのか、赤いグラデーションで示してみました。 それに天保14年の地図を重ねてみます。佃島が、小さな島だったことがわかりますね。 さらにこの画が描かれた安政4年の地図を重ねてみました。佃島とその北の石川島は、隅田川河口の小さな中洲にできた島でした。 一度現在の地図に戻して、縮尺のしっかりした明治11年頃の地図を上からかぶせてみます。この頃には、佃島北の石川島は、造船所に変わりつつあります。永代橋も今より少し上流にあったことがわかりますね。 そもそも、この佃島が出来たいきさつは、天正10年(1582)年に遡ります。織田信長から呼び出されて堺にいた家康は、京都本能寺で信長が明智光秀に討たれてしまったことを知ります。そこから家康一行32名は、地元三河までの逃避行を決めます。 その途中、摂津・神崎川まで来たところで川を渡る舟がなくて進めなくなり、そこに現れたのが近くの佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供したことで無事、岡崎城まで戻ることが出来ました。地図の赤い丸が今の佃村(西淀川区佃)です。 後に家康が幕府を開いて江戸に入った時、この時に救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、自由に漁業を営む権利や、年貢免除の特権などを与えました。中でも、白魚漁は、佃の漁民だけに許された漁でした。そのときに呼ばれた漁夫33人と地元神主・平岡権大夫好次が、島を整備し佃島と名付け、摂津国佃の住吉社も分霊し、住吉神社を創建しました。 実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。まず真ん中に現れるのが、大幟です。これはお祭りの時に、徳川家から特別に立てることを許されたもので、今でも祭当日は、6本の大幟が立ちます。 左に松、その下に漁民にかつがれた神輿渡御が描かれています。これは八角神輿と呼ばれ、宮入りのあと、海に出て島の周囲を反時計回りに一周して、今戻ってきたところです。その右、遠くに品川大森方面が見えています。 その下には、大型船である弁才船が数隻浮かび、脇には、佃の渡し船と釣り船も描かれています。 当時描かれた佃島の姿を探してみました。まず見つけたのが、斎藤月岑の描いた江戸名所図會です。明石町上空を想定して佃島を見た画になっています。よく見ると緑の矢印の辺り、神輿渡御も描かれています。右下は佃の渡し発着所です。 次に広重が初期の頃に永代橋たもと方向から描いた、佃島です。種まき鳥といわれる初カッコウが画題なので、4月頃の景色だと思われます。左が深川新地、今の越中島辺りですね。 これは永代橋越しに見た佃島ですね。弁才船がたくさん描かれているので、この辺りが江戸湊の中心地だったことがわかりますね。舟はここから順番に日本橋川を遡っていきます。 これは広重が描いた、永代橋の全景です。混雑する隅田川の河口に位置する佃島の位置がよく分かりますね。当時の永代橋は、少し上流、今の日本IBMの辺りに架かっていました。右下に見えているのが、日本橋川の河口です。 実際にこの場所に行ってみました。広重がこの画を描いた地点を南側から見ました。江戸時代に人足寄場のあった石川島の西南の端、石川島灯台を復元した場所です。 灯台から佃堀を渡ると、左に赤い鳥居があり、この奥に住吉神社の本殿があります。今、隅田川はコンクリートで高く護岸されていますが、当時は、この道の高さから、そのまま隅田川に下りることができました。 実際に広重が見た景色がこれです。といっても今は佃大橋があるので、その下まで来て撮った写真です。左が勝ちどき、右が築地、そこを繋ぐかちどき橋が小さく見えます。右側は、聖路加タワーです。この写真の左側半分が広重の画になった景色です。 これが住吉神社境内です。こぢんまりした神社ですが、新しく埋め立てられた佃、月島、勝ちどき、豊海、晴海の産土神となっています。 これが住吉神社です。 これが広重の画に描かれた八角神輿です。天保9年、1838年に芝大門の万屋利兵衛によって制作され、170年以上使われてきました。海に入るため、内部は漆塗りで防水されているそうです。 これは平成23年に八丁堀の秋山三五郎によって、リニューアルされた八角神輿です。 これは佃堀に架かる橋から住吉神社の裏手を見た景色です。この堀には、大幟を立てる柱と抱木(だき)が埋められて保存されています。この堀に埋めるやり方は、江戸時代から続いているそうです。 祭の時に佃堀から掘り出された柱と抱木(だき)は、この歩道の三つの四角い蓋を剥がして建てられます。 佃堀を南から見た景色です。当時カメラのある撮影地点はもう海でした。奥の高層ビルは、江戸時代には人足寄場、その後石川島造船所となり、東京都肝いりの再開発で、大川端リバーシティに生まれ変わりました。 これは明石町側の佃の渡しがあった場所から、佃島を見た景色です。赤い鳥居の奥には、住吉神社、左の水門が佃堀の水門、その左が再建された石川島灯台で、広重の視点となった場所です。八角神輿は、住吉神社から宮出しされ、正面の赤い鳥居をくぐり、海に入ります。その後右に行って、佃島の南端から島を一周し、ここに戻ってきて上陸します。そのときに、灯台の辺りから見た画を、広重が描いたことになります。 ここから佃島までの「佃の渡し」は、東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)8月に佃大橋ができるまで、造船所に通う人々と、住人で一日70往復もしていました。 これは、大正八年に刊行された、「今昔対照江戸百景」という本に掲載されていた大正時代初め頃の写真です。神社から海に入り、これから神輿渡御の始まりという場面のようです。その当時も八角神輿だったというのがよく分かりますね。 広重の画に、今の実際の写真をはめ込んでみました。当時海だった場所には、勝どき駅前の高層ビルが建ち並んでいます。この右にあった、築地の魚市場も今では、この写真の遠く左側、新豊洲の埋め立て地に移転しました。 江戸湾は、家康が入府した頃から、これから先も、ずっとずっと埋め立て続けられていくのですね。